特許翻訳の攻略法
特許翻訳の特徴
特許翻訳は難しいでしょうか。一般翻訳者に特許翻訳を勧めても、以前は、内容が難しそうだとか、特殊な体裁を覚えるのが厄介だとか、尻込みする人がよくありました。最近は、特許翻訳が実務翻訳の有力な一分野として喧伝され認識されてきたため、抵抗は少なくなってきたようですが。私は、特許翻訳のオリエンテーションをする際、「いや、技術論文がきちんと訳せれば大丈夫ですよ。いろんな約束事はありますが、何回かやれば覚えられます。大事なのは技術文の翻訳能力です。」といつも言います。現に、研究方向にちょっと書き足して体裁を付けただけの、場合によってはそれすらもほとんどしていない明細書も、コンピュータやバイオ関係ではよく見られます。本質的に科学技術論文のバリエーションであるというのが、特許明細書の特徴の一つです。なんと言っても特許出願の対象はそれぞれの分野での先端技術であるため、技術に関心のある人には、特許翻訳をやっていると最新情報が自動的に入ってくるので、応えられないようです。
とはいえ、一般の技術文に比べて、文体の上でも若干の違いがあります。端的に言えば、権利の範囲を厳密に規定する必要があることから、法律や契約書と共通する、法律文としての性格があります。具体的には、修飾が多く、複雑な構文が多用されます。その最たるものが、クレーム(特許請求の範囲)であり、英文では関係文や分詞構文を駆使して、何行か、時には数ページにわたる文が、すべて1つの名詞(発明の主題)を修飾する形を取ります。すなわち、日本語では名詞止めの一語文、「。」は最後に1つだけということになります。もっとも、このクレームの訳し方もこつを覚えれば難しくはありません。問題は、複雑な修飾関係を誤りなく理解し、わかりやすく表現できる力があるかどうかです。
特許翻訳の種類
日本の一般の国内出願は、十年前に電子化され電子出願と一般に言われてきましたが、その明細書の書式は、欧米の特許明細書と大きく異なっています。一つは順序が変わることで、欧米では明細書の最後にあるクレームが、日本では最初に来ます。また欧米では真中、Embodimentの直前にある図面の説明が、日本では最後になります。第2に、本文に当たる【発明の詳細な説明】の部分をその内容に応じて分けて、【発明の属する技術分野】【従来の技術】【発明が解決しようとする課題】【課題を解決するための手段】【発明の実施の形態】【実施例】など所定の見出しを付け、Abstract要約書も同様に【課題】【解決手段】などに分けます。その他、【発明の詳細な説明】の部分では、段落ごとに【0001】などの通し番号を付ける、最後に【符号の説明】として図面中の主な部分の訳語を参照番号(記号)と共に列挙する等々の処理も必要です。なお数年前から外国語(英語)による国内出願も可能になりましたが、その訳文も同じ書式を使用します。同様に米国の国内出願用の英訳では、クレームなど米国式のスタイルに書き直すこともあります。
一方、優先権証明書に添付する訳文は、原文通りの体裁で訳します。なお、複数の国に同時に出願できるPCT国際出願の訳文はこれまで原文通りの体裁で訳すことになっていましたが、2000年から電子化され、和訳の場合、一般の電子出願とほぼ同じ書式を使うことになりました。どの書式で訳文を作るかが、特許翻訳の種類を考える上で注意すべき第一点です。
第二点は、原文と訳文のどちらが正式の書類になるかです。日本語による国内電子出願では、日本においては訳文が正式の書類、正本になります。したがって、たとえば明らかな誤りは訂正して訳します。もちろん、どこを訂正したかは逐一訳注に明記します。一方、外国語による国内電子出願、PCT出願、優先権証明用、その他審査裁判用などのものでは、あくまでも原文が正本ですので、誤りも含めてできるだけ原文通り訳さなければなりません。正本を補正せずに、訳文だけ直しても意味がないからです。
なお、特許翻訳には、明細書の翻訳の他に、中間処理と呼ばれる手続上特許庁と出願人との間でやりとりする文書の翻訳もありますが、それには特許に関する法律手続の詳しい知識も必要です。
特許翻訳の文体
もちろん特許翻訳では他の文献以上に厳密さ、忠実さが大事です。術語の訳は、学術用語、JISなどの公定用語、標準の訳語を使います。術語の定訳がない語や紛らわしい語には、( )内に原語を添えます。同一の語句(もちろん同じ意味の)や表現には同じ訳を付けます。
一方、類似の用語はできるだけ訳し分けます。system は定訳語でない限り"装置"とはせず、「システム」とします。unit も同様です。システムは装置の複合体であり、ユニットは装置の構成部分だからです。現に、同じ明細書中で〜システムと〜装置が異なるものを指す、すなわち〜装置と他のいくつかの装置からなるものを〜システムと呼んでいる場合はしばしばあります。apparatus と device を訳し分けるべき場合さえあります。動詞も同じで、connect と couple など通常は訳し分けます。ただし、技術内容に関係のない地の文では、because と since、therefore と consequently などあまり訳し分けにこだわる必要はありません。もちろん、そのまま訳して問題がないのにわざわざ言い換える必要はありません。たとえば些細な例ですが、supprisingly は「驚くべきことに」であり、unexpectedly 「意外にも」と言い換えるべきではありません。
一般文献、特にマニュアルの翻訳では、わかりやすく言い換えることが求められる場合もありますが、特許ではその必要はありません。専門家にわかる表現で十分です。以下の訳例はいずれもマニュアル翻訳者で特許を始めたばかりの人のものですが、下線部分をそのように言い換える必要はありません。
●例文1
→ を備える
●例文2
→ は、〜含む
●例文3
→ 下位互換性
●例文4
→ 公衆にとって透過的(トランスペアレント)である〜実施(実装)が難しい
なおこの訳文の transparent は誤訳で、本当は中で行われている動作が外部からは見えないという意味です。専門用語の訳語があるにもかかわらず、それを知らずに冗長な訳し方をする例はよく見られます。金属疲労などのfatigueを、意味は分かっているのに"疲労"は専門用語ではないと思って長々と意訳した人がいました。
とはいえ、より重要なのは、複雑な文章を正確に読み解いて忠実にかつ分かりやすく訳すことです。次の訳例など、表面上顕著な誤訳は thus だけですが、訳者が内容をどれだけ理解できているのか疑問です。特に、前から訳すか後ろから訳すか、どこで切るか、内容の流れを考えて訳すことが大事です。
●例文5
特許に限らず、少し慣れてきたら中味を考えずについ形で訳しがちですが、私は若い人たちに目で訳さず、頭で訳せとよく言います。facsimile duplication を"ファクシミリ複写"と思ったことはありませんか。最近のファクシミリ機には複写機能の付いたものもありますが、複写にファクシミリ機を使うよう指定することなど通常は無意味です。これは「複製」です。変だと気づくこと、そして辞書を引き、調べることが重要です。
特許独自の用語と表現
特許独自の用語があります。その主なものを挙げておきます。
以上は、特許制度に関係する用語ですが、制度に関するその他の用語は以下の書物を参照してください。
特許でよく使われる動詞には provide、comprise があります。provide は一般に「提供する」と訳しますが、「供給する」「形成する」「設ける」「用意する」「実現する」「もたらす」「可能にする」など様々な意味で使われ、訳し分けの必要なこともあります。なおbe provided with となると、「を備える、装備する」です。comprise は一般に「を備える、具備する」と訳し、目的語によっては「含む」「有する」と訳すこともあります。これは特許では include と似た意味で使われるのが普通で、consist of 「からなる」 be composed of 「から構成される」とは区別しなければなりません。なお be comprised of は「からなる」の意味です。
特に機械の分野では、嵌合 fit、当接 abut など一般には使われていない難しい漢語がよく使われます。覚えると便利ですが、こうした語を使わず、一般の機械用語を使ってもかまいません。使用の際は意味をよく確かめる必要があります。たとえば嵌合は"はめ込む"の意味ですが、engage「係合」と混同する人がよくいます。こうした語の意味については、以下の参考書があります。
英訳については一義的に訳語を当てることは無理なことも多いのですが、下記のサイトにその試みがあります。
「特許明細書用語集(和英)」パトロ・インフォメーションクレームの訳し方
名詞止めの一語文という他に類のない特徴を持つクレームですが、まず簡単なものから。
●例文6
この場合は、主題語 semiconductor memory device に直接かかる修飾語がないので、普通のやり方で訳せます。wherein は、追加説明をする場合によく使われる特許独特の表現で、よく「ことを特徴とする」と訳しますが、characterized in that との違いをはっきりさせるために、wherein は訳さないというやり方も増えているようです。
●例文7
次の例になると、主題語を修飾する部分が長くなっています。このような場合は、適当なところで一度切って、「〜なメモリであって、」とし、以下続けて最後まで訳した後、再度主題語を持ってきて、「〜なメモリ。」とします。
●例文8
化学のクレームも取り上げてみましょう。次の文の selected from the group consisting of という選択表現は、化学などだけに認められているものです。
●例文9
化学式や数式の後の、記号を説明する際に使われる where や wherein は、そこまでを訳し終えた後「上式で」などと訳します。後は淡々と訳せるはずです。この記号定義の部分を( )に入れるやり方もありますが、この方がスマートです。
クレームには、以上のような独立クレームの他に、他のクレームを引用した形の従属クレームがあります。主題語 communication system に不定冠詞ではなく定冠詞が付いている点に注意してください。「〜に記載の」という引用部分は、前に持ってくるやり方もありますが、次のように文末に置くやり方の方が一般的なようです。
●例文10
この引用のためのつなぎの言葉は、of の他に、as set forth in、as defined in、as recited in など様々な表現が用いられますが、日本語では訳し分ける必要はありません。「に記載の」の他に「記載の」「の」も使われます。
その他、主題語が具体的なものではなく、improvement や combination が使われることもあります。その扱いについては翻訳の種類に応じて、そのまま訳す場合と、具体的なものに置き換えるべき場合があります。
トピックス
特許翻訳のメリットはいろいろありますが、仕事が大量にありそれ専門に同じ種類の翻訳を集中してやれるので、スタイルが統一されていることから英語力、翻訳力を磨くのに好都合です。何でもそうですが、最初は決まった分野の仕事に集中する方が、力がつくものです。
英訳を志向する人も和訳から入り、両刀使いを目指すべきです。読むだけでは理解が不十分で、苦労して訳していく中で英文の表現が身に付くものです。長年特許の英訳をしている人でも、英文特許を丁寧に読む機会がないために自己流の表現を使っている場合が少なくありません。
明細書にはタイプミスを始めエラーが付き物です。また明細書の文章は悪文が多いのです。学術論文では審査の段階で不十分な表現があれば書き直しを命じられますが、特許は時間との競争なので、後から補正すればよいと、読み直しもしないで出すことも多いようです。ですから、特許ばかりやっていると感覚がおかしくなりそうだとみな言います。
明細書の部分ごとに訳しやすさが違います。はじめの方の【従来の技術】の部分が翻訳上は最も難しいのです。まとめて書いてあるので本当の専門家でないと理解が難しい上に、直訳ではぎこちなくなる表現がよく出てきます。一方、Embodiment 【発明の実施の形態】の部分は、図面に沿って話が具体的に展開するので最も訳しやすいのです。ですから少なくとも最初のうちはここから訳し、その後で明細書の頭に戻り、最後にクレームを訳すのがよいと言われています。
翻訳後の処理については、企業の特許部や特許事務所の特許技術専門家が、技術面および規則面からチェックするのが普通です。英訳の場合は、米国の特許事務所で英文チェックが行われる場合も多いと思われます。ですから一般には、後の処理は専門家に任せて、翻訳者は内容を正確に訳すことに専念すればよいのです。
数年前から日本や欧米主要国の特許明細書がインターネットで無料で閲覧できるようになりました。術語の調査や表現のチェック、さらには明細書の書式や馴染みのない分野の技術の勉強などに大変有益です。
特許庁ホームページ
US Patent and Trademark Office espacenet European patent information World Intellectual Property Organization The European Patent Office(EP)英語以外の場合も事情はほぼ同じですが、翻訳者も仕事量も少ないために多くの分野をこなさなければならないこと、日本語との専門辞書が皆無に等しいため、英語の専門辞書を仲介しなければならないことが大変です。理科系の出身で英語の翻訳をしており、他のいくつかの言語も知っている人ならまだ楽ですが、仏文出身などの方はご苦労が大変だろうと思われます。それだけに優秀な翻訳者はきわめて少ないのが実状です。
特許出願の手続には、出願、公開、公告、登録の諸段階があり、明細書にはそれぞれ異なる番号がつきます。その他、特許翻訳には様々な約束事があります。私が社内用に作ったレジメでも、例文なしで本稿の数倍に達するのでとてもその全体はご紹介できません。私どもの会社や本誌出版社をはじめとして、特許翻訳の講座も沢山ありますので、御利用になれば覚えられます。また、私どもの会社のように、実力のある翻訳者には特許翻訳の仕方をon the job trainingで教えているところもあります。本稿を読んで自分にもできそうだと思われた方は挑戦してみてください。