ALC特許文書講座
特許翻訳は技術翻訳の一種
かっては特許翻訳は特殊な知識を要する部門と思われ、特許事務所などで知識を得る機会のあった人にしかできないものと見られがちでしたが、先端技術の発展に伴う特許文献の目覚ましい増大と、折からのアウトソーシングの進展により、近年は一般の翻訳市場でも大きな存在として注目を集めるようになってきました。
確かに特許翻訳ではいくつもの約束事を知らなければなりませんが、一番大事なのは技術内容を正確に理解することです。特許文献は科学技術論文とよく似ています。ただし、権利内容を厳密に規定する必要があることから、複雑な文章が多くなりますので、内容をよく検討せずに形だけ見て訳していくと、誤訳が多くなります。翻訳一般にそうですが、話の内容を正確にフォローできる能力がより必要とされます。
それと同時に、原文に忠実な訳文を作ることも大事です。専門用語の場合が特にそうですが、原語をよく似た別の語で訳してしまうと、権利範囲が原文とは変わってしまいます。したがって、原文と等価な訳語を使用することが必要です。不必要に言い換える習慣はなくさなければなりません。もちろん原文の用語や表現をできるだけ活かしながら、その上で日本語らしい表現で訳すための翻訳テクニックも身につけないと良い翻訳はできません。
こういうと、文化系の方にはとても無理と思われるかもしれませんが、実際には、文化系出身の特に女性で一流の特許翻訳者として活躍されている方も少なくありません。ただし、そのような方々は、理工科系出身者以上に専門技術の勉強にも力を注いでおられるようです。
特許の対象となる技術分野としては、電子装置や集積回路、コンピュータや情報通信、様々な化学製品や薬品、医療機器などの先端技術が中心で、最近では本格的なバイオテクノロジーものもよく眼にします。特に情報技術については、以前は大型機メインフレーム関係などの専門的なものが多かったのですが、近年はインターネットや電子取引など一般ユーザに身近なテーマも増えてきました。これらのテーマは、パソコンのヘビー・ユーザならコンピュータ技術者に劣らず理解しやすく、文化系出身者にとっても入りやすい分野です。
特許明細書とは
特許翻訳の中心は特許明細書の翻訳ということになりますが、明細書specificationとは発明の内容を、その分野の専門家が理解でき、またそれを読めば例えば対象とされる装置が作成できるように詳しく説明した文書です。その一部として、発明の内容、権利の範囲を厳密に定義したクレームClaims(特許請求の範囲)があります。また、図面と、内容を要約した要約書Abstractが付属しています。
明細書翻訳の目的はいろいろありますが、特許出願のためのものが中心です。出願applicationにはいくつかの種類があり、翻訳の仕方も多少変わってきます。外国企業が日本で特許を取る場合、明細書の和訳が必要になります。
例えば米国で既に特許出願していたものと同内容のものを日本で出願する場合、訳文を日本の電子出願書式に沿った形にすることが求められ、一般に電子出願と呼ばれています。原出願から1年以内なら万国工業所有権保護条約(パリ条約)による優先権の適用を受けられることから、パリ・ルートの出願と呼ばれることもあります。
同じ日本国内だけでの出願に数年前から英語による出願も認められるようになりました。これを外国語出願と言いますが、3ヶ月以内に訳文を提出しなければなりません。
特許協力条約(PCT条約)に基づき1回の出願で複数の国に同時に出願できる国際出願があり、一般にPCT出願と呼ばれています。この場合も原文が外国語の場合は18ヶ月以内に訳文を提出しなければなりません。
このうち、(日本語)電子出願と外国語出願は、定められた電子出願形式で訳します。この形式は、米国など諸外国の形式とは順序を始め大きく異なっています。まず、米国特許ではクレームが明細書の最後に置かれ、図面の説明部分が明細書の中程、Embodimentの具体的説明の直前に置かれますが、日本の明細書では【特許請求の範囲】は明細書の冒頭、【発明の名称】の直後に置かれ、【図面の簡単な説明】は最後に置かれます。次に、本文に当たる【発明の詳細な説明】の部分をその内容に応じて分けて、【発明の属する技術分野】【従来の技術】【発明が解決しようとする課題】【課題を解決するための手段】【発明の実施の形態】【実施例】など所定の見出しを付け、要約書も同様に【課題】【解決手段】などに分けます。その他、【発明の詳細な説明】の部分では、段落ごとに【0001】など通し番号を付けます。最後に【符号の説明】として図面中の主な部分の訳語を参照番号(記号)と共に列挙する等々の処理も必要です。PCT出願も昨年から電子化され、電子出願形式とほぼ同じになりました。異なる主な点は、所定の見出しを適用せず、原文に見出しがある場合だけそれを直訳して( )で囲むこと、Abstractは原文どおりの訳でよいこと、【符号の説明】を加える必要がないことです。
また、(日本語)電子出願は、原出願とは一応独立したもので、訳文自体が正本となりますので、発明の範囲自体を変えない限り、若干の手直しや原文の誤りの訂正が許されます。一方、外国語出願とPCT出願は原文が正本となり、訳文は参考にすぎないので、自明な誤りの訂正も基本的に許されません。補正書で原文の誤りを訂正しないと意味がないからです。もちろん、どちらの場合にも誤りに気付いた場合に勝手に訂正してはならず、必ず訳注で指摘しておくべきです。
いずれの種類でも訳文の提出期限は予め決まっており、それに遅れると優先権などの諸権利や出願自体も無効になることがあるので、翻訳納期は厳守しなければなりません。
以上、日本への出願、和訳の場合について述べましたが、外国への出願のための外国語訳の場合にもパラレルな事情が見られます。例えば、米国に出願するには英語で出願するほかに、日本語など外国語での出願も認められており、また日本などからのPCT出願ももちろん可能です。
この他、外国語訳に限ってのことですが、先に述べた優先権の適用を受ける場合、優先権証明書を提出することになっており、オーストラリアやEP(欧州特許庁)等一部の国や地域では、原出願と内容が同じことを確認するために原出願の忠実な訳文の提出を求められます。これは優先権証明用の翻訳と呼ばれ、形式も内容も原文に忠実でなければなりません。
さらに、自社の発明が他社の特許と抵触するかどうかなど、調査目的で依頼される翻訳もよくありますが、この場合は原文の形式どおりに訳せばよいのが普通です。
なお、明細書翻訳の他に、特許庁への提出書類、特許庁からの通知書類など手続関係の書類を、外国の依頼人や代理人(弁理士)のために翻訳する仕事があり、一般に中間処理と呼ばれています。中間処理の翻訳には、明細書を翻訳できる能力に加えて、特許制度の知識も必要です。
では実際の英文明細書を見ていきます。初学者の皆さんには難しいかもしれませんが、専門レベルのものを取り上げます。このレベルのものがこなせないと実際に仕事をすることはできませんから。なお以下の課題の出典は米国特許第5,982,392号であり、訳例には多少経験のある複数の方の実際の訳文を使ってあります。
課題1
訳例1
明細書本文は、通常このような文章で始まります。この部分は、電子出願では【発明の属する技術分野】と名付けられています。
particularlyは"特に"という訳語しか知っていない方が多いのですが、particular「特定の」の副詞形として「具体的には(具体的に話すと)」という意味で使われることも多く、この部分では似た意味ですが日本語明細書の慣例に合わせて「詳細には」と訳すのが適切です。
controlには様々な訳語がありますが、電気、機械、情報処理等の分野では普通は「制御」と訳します。またsourceとdestinationは情報処理や通信の分野でよく対で使用され、例えばあるデータをコピーする場合、それぞれ元のデータのある所(コピー元)とコピーが作られる所(コピー先)を意味します。コピー元、コピー先など具体的な意味に合わせて訳すことができますが、一般的な訳語は「ソース」「宛先」です。
専門用語と辞書
こうした専門用語には、決まった訳語を使わなければなりません。公定の用語には、学術用語とJIS(日本工業規格)用語があり、それぞれ各種の「学術用語集」(丸善、日本学術振興会、各学会)と「JIS工業用語大辞典」(CD-ROM版あり、日本規格協会)に載っています。「インタープレス版130万語大辞典」(CD-ROM版、アルファベータ社)は両者の主なものを納めていて便利です。また科学技術全般にわたる辞書としては、「マグローヒル科学技術用語大辞典」(CD-ROM版あり、日刊工業新聞社)が簡潔な説明も載っていて便利です。この他、例えば情報処理の分野では「情報処理用語大辞典」(オーム社)、「IBM情報処理用語英和対訳集」(日本アイビーエム)など各分野の専門辞書も参照する必要があります。辞書は翻訳者の命綱ですが、辞書に載っている訳がすべて正しいわけではありません。複数の専門家が編集に参加しているもの、編集体制がしっかりしている出版社からでたものなどは一応安心できますが、個別に評価すべきです。
不要な言い換えは避ける
on a screenのonは、この訳例では訳してありませんが、直訳すると「画面上に(で)」となります。"の上"ではなく「上」と訳す方が文体が締まります。同様に場所を表すinは「中」または「内」と訳します。この場合はonを訳しても訳さなくても余り変わらないかもしれませんが、原文どおり訳しても支障がない場合はそのまま訳す、つまり不必要な言い換えは行わないと言う基本的スタイルを確立しておくと、誤訳や意味範囲が変わるリスクが小さくなります。またsuch asを"例えば"と訳す人がよくいますが、意味は変わらなくとも、語調が変わり、複雑な文ではバランスが崩れる可能性があります。もちろん、これは直訳が日本語としておかしくない限りでの話であり、たとえばa 10% solution of the product in alcoholは「生成物の10%アルコール溶液」、さらにa low-viscosity solution of one or more precursors in a solventなら「1種または数種の前駆体を溶媒に溶かした低粘性溶液」と訳さないと自然な日本語にはなりません。
改訳例1
課題2
訳例2
take control of は直訳すると「〜の制御権を握る」という意味です。"制御する"ではなく「制御を行う」と訳したのは、ベターだと思います。
go beyond just 〜 to の部分が難しかったようです。to以下を不定詞と思い込み、結果のように訳してしまいました。この部分は、直訳すれば「〜を越えて(その先まで進み)〜に至る」ということで、「単に〜接続することを越えて、〜制御権を握ることにまで及ぶ」ことになります。
訳抜けは最大の誤訳
訳抜けは単なる誤訳よりも重大です。notが抜けた場合を考えてみて下さい。奈良時代の写経生でも脱字には誤字の五倍、丸一行抜けの場合は百倍、収入半日分の罰金が差し引かれたと言います。ただの誤訳なら訳文を読むだけで気付く場合も多いのですが、訳抜けは訳文からは見つけにくいのです。訳抜けで多いのは、この例のように後ろから訳して始めの方の語句を訳し忘れる場合と、二三行置いて似た語句で始まる文がある場合です。前者の対策としては訳文で後に来る部分を英文の出現順に訳しておく、後者の対策としては、訳文で句点を打つ度に原文の対応する位置に印を入れる等が有効です。
多義語の訳し分け
applicationには、様々な意味がありますが、特許では「出願」を表します。また一般の"用途"
の意味でもよく使われ、対象が広い場合は「適用分野(応用分野)」狭い場合は「適用例(応用例)」と訳します。コンピュータ関係ではコンピュータを使用する特定の用途を「適用業務」と言い、ワープロ・ソフトなどそのためのプログラムをapplication
program「適用業務プログラム」「応用プログラム」と言います。これも英語では略してapplicationと言うことがよくありますが、programを補わないならば「アプリケーション」と訳すのが妥当であり、本例もそれに当たります。
この他、特許でよくでてくる紛らわしい多義語をいくつか挙げると、assignは情報処理などでは「割り当てる」ですが、特許出願の所有権を会社の名義にする場合は「譲渡する」です。transmitは通信関係で「伝送する」と訳し、receive「受信する」と対で使われるときは「送信する」ですが、光通信では「(光を)透過する」の意味にもなります。exposeは集積回路の製造でよく「露光する(光に当てる)」の意味で使われますが、「露出させる(剥き出しにする)」の意味でも使われます。従って、日頃から多義語をマークしておくと共に、そのような言葉については文脈をよく頭に入れて是非を逐次検討しなければなりません。
改訳例2
課題3
訳例3
bottleneckはいつも交通渋滞を起こす場所など、全体の効率を落とす原因となる所で、日本語では略して「ネック」と言っています。言葉のニュアンスを理解せずに、単に辞書に載っている訳語をそのまま使うのは危険です。学生時代によく英語の先生から英英辞典を使えと言われませんでしたか。その心は、辞書、特に一般辞書は、単語の訳ではなく言葉の意味、その範囲、ニュアンスを知るためのものだと言うことです。
前置詞は組合せで覚える
effect onは「〜に対する影響」です。act on「〜に作用する」のonと同じです。動詞や形容詞、名詞と前置詞の組合せは、対として覚えておくべきです。request〜from...が「...に〜を要求する」の意味であることを弁えていれば、"〜から"と誤訳する恐れはなくなります。inform...of〜が「...に〜を通知する」であることを頭に叩き込んでおけば、informが出てくればその後に "of + 通知内容" が予測でき、of 〜を "〜の〜" などと直前の名詞にかけて誤訳することがなくなります。これは英訳にとっても大事です。
改訳例3
課題4
訳例4
この文ではwhileは対比ではなく「であるものの」という意味です。representは"代表する"ではなく、「表す」、つまり「〜となっている」です。
名詞構文は動詞構文で訳す
the transmission of image portion usually in the form of bit mapsは、このまま訳すとぎこちなくなります。訳例の "たびに、" も "たびの〜"と訳さないと正確ではありません。このように動詞の派生名詞がでてくる文は、"〜たびの〜の〜での伝送"とする直訳する代わりに「〜たびに〜を〜で伝送する(こと)」と動詞の形で訳すと訳文が滑らかになります。なお、この場合ofの後の名詞が、他動詞では目的語(自動詞では主語)になります。形容詞構文も同様で、because of the low speedはbecause the speed (at which〜) is lowと書き変えて訳すと滑らかな訳文になります。
改訳例4
課題5
訳例5
話の中身、流れをフォローする
この訳文は、in the target computerのinを「内で」とすべき点以外は、いわゆる誤訳はありません。しかし、訳文を読んだだけで何を言わんとしているか理解するのは極めて困難です。もちろん訳者も内容がよく分からなかったのでしょう。どの文章もたとえ悪文でもその言いたいことは理屈に叶っているものです。腑に落ちるまで原文の解釈を深め、訳文を推敲しなければ、よい翻訳はできません。言い換えれば、訳文がすっきりしているかどうかが、原文理解度のバロメータとなるのです。
before文を頭から訳して「〜した後で〜する」とするとわかりやすくなる場合があることは御存知でしょう。by以下の内容を箇条書きにすると、
・プロトコルを定義すること、
・それを使ってコマンドを変換すること、その後で
・何かをコントローラ・コンピュータに送ること、
・そこでコマンドを再変換すること
となります。そうです、これらの動作は時間順になっているのです。関係文を接続用法として「〜、そしてそれは〜」と前から訳すこと、to不定詞を「〜して〜する」と訳すことも御存知ですね。その通り訳せば、すっきりした訳文が得られます。ただし、いつも前から訳した方がよいということではなく、ケースごとに検討すべきことは言うまでもありません。
改訳例5
最後に、クレームは特許独自の部分であり、名詞止めの一文で訳さねばならないため、独自のテクニックを要する所ですが、紙幅の関係上、原文と改訳例だけを挙げておきます。
課題6
訳例6
和訳から英訳へ
英訳(外国語訳)については別の機会に譲りたいと思いますが、よい翻訳をするには、和訳から入り何年か英文明細書を精読して、そのスタイル、常用表現、技術用語に通じた後で始めるべきです。英訳が得意でも英文明細書を丁寧に読むことが余りない人の翻訳は、明細書としては不自然な表現だらけです。一方、和訳を何年かしたよくできる人なら英訳を始めてすぐにきれいな英文が書けます。もっとも、英訳で最も難しいのは、ともすれば意味の読み取りにくい和文原稿を、技術的に正確に読み取ることです。
インターネットの利用
近年、日米を始め多くの国で特許情報がインターネットで(無料で)公開されるようになり、大変便利になりました。先端技術の諸分野では辞書、参考書も充実していますが、特許の主題には、煙草のフィルタや紙おむつなど身近なものもあり、以前はまとまった辞典としては「工業大辞典 18 巻(平凡社、絶版)」くらいしかなく、そうした分野の用語を調べるのはほぼお手上げでしたが、特許データベースでキーワードを手がかりに関連特許を探せばヒントが得られます。また、英文明細書や、手間はかかりますが英文−和文、和文−英文の対訳を集めておけば、英語表現のチェック、独自の表現の訳し方の参考にもなります。
特許庁ホームページhttp://www.ipdl.ncipi.go.jp/homepg.ipdl
http://www7.ipdl.ncipi.go.jp/Tokujitu/tjkta.ipdl?N0000=108
*さあ、特許翻訳の道に
以上、特許翻訳の内容が少しはご理解いただけたでしょうか。実は、長年ある分野の専門家として活躍され、外国語文献も駆使されてきた方でも、特許翻訳を試みて無惨な結果に終わった方々も少なくはありません。ことほどさように特に特許翻訳には細かい点までも厳密な理解が要求されます。とはいえ、研究開発やビジネスにおけるほど深い知識がないとできないものではありません。主要要素の主な性質とその相互の関係がきちんと把握できること、分からないことは調べてその程度に理解できることが重要です。特許翻訳はその本質において、それ以外の翻訳と何ら変わることはありません。むしろ複雑な構文が多いことなど、真の翻訳能力が試されます。一般もののように周囲の状況を考える必要がなく、記載内容の理解に専念できるので、いったん形式や常用表現を覚えれば、一般ものの翻訳は邪魔くさくなるほどです。しかも、決まった形式で特定の分野の仕事を重ねると翻訳一般の能力もずっと速くつきます。おまけに、実力のある方には仕事が絶えることがありません。我と思われん方はご連絡下さい。