第1回 翻訳上達の鍵
はじめに
十年余のフリーの翻訳生活の後、現在の会社で十余年、主に特許和訳のチェッカーをして大勢の翻訳者の訳文を見てきましたが、誤訳の多くは決まったパターンに属するもので、慣れてくると何をどう誤ったか大体分かるほどです。
よい翻訳をするには、翻訳内容に関する専門知識、対象言語の単語や文法に関する言語知識の他に、話の流れを論理的に追いかけていく理解力と、訳文の表現力が必要です。専門の勉強は、翻訳学習の中だけでなく独自に行うのが効果的であり、また理解力は生得的な所もあって学習で一挙に身に付くものでもありませんが、外国語の語句や訳文の表現については、ある程度系統的に覚えていくことができます。
熟練した翻訳者は、基本語であれ術語であれ「定訳」を用意しており、構文や表現に対しても「決まった訳し方」を用意しています。と言うより、経験を積むにつれていつも使う表現が自然に固まってくるのです。しかし、単語にも構文にも複数の意味があることが多いのです。したがって複数の「定訳」「決まった訳し方」を用意して適宜選択することが必要です。これができていないと、誤訳の原因となると共に、紋切り型の文章になってしまいます。ある程度勉強を積み重ねた上で実際の仕事に入る段階では、きちんとした「定訳」をどんどん蓄積していく勉強法が有効と思います。
まず、よく見られる誤りのパターンをいくつか挙げてみましょう。
よく見られる翻訳上の誤り
専門用語には決まった訳語があり、それを使わないで勝手な訳語を宛てるのは誤りです。特に文化系出身の方に申し上げておきたいのですが、科学技術を始め実務文書では、よく似たように見える表現でも、異なる概念を指します。一般に異なる語は異なるものを表し、勝手に置き換えると誤訳になることを銘記しておく必要があります。
●例文1
これはバイオテクノロジーの話ですが、ここではamplification productの訳語を問題にします。Amplifyは、バイオでは微量のDNA断片などをPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)などの技術によって増やすことを言い、「増幅」と訳します。productの方は、「製品」の他、化学の分野では「生成物」と訳すのが普通ですが、バイオでは意味は同じですが「産物」と訳しています。ここではこの術語を「増幅産物」と訳さないとおかしいわけです。この訳文は誤りが多いので正解を挙げておきます。
●例文2
この訳で、connect を「結合」と訳したのは「接続」とすべきです。類義語をはっきり区別して使用することが必要です。connect は、電気、通信の分野では「接続する」、機械関係ではそれに加えて「連結する」が定訳です。
●例文3
transferは、情報処理などの分野では「転送」と訳し、装置内部での信号の送受を意味しますが、他にもイメージやパターンを別のものに移す「転写」、経済の分野では譲渡など所有権を他者に移す「移転」など、様々な意味で用いられ、多数の訳語があります。ここでは「移動させる」とすべきでしょう。複数の意味、訳語のある多義語は、この場合はどの意味か、その都度検討する必要があります。
●例文4
よく使われる言葉なのに辞書にも適訳がないこともあります。Dispense はキャッシュ・ディスペンサ(現金自動支払機)の例からも分かるように、決まった量を計量して配給、供給すると言う意味ですが、一般的に使える定訳が見つかりません。この場合は「分注する」です。正解は次の通りです。
●例文5
これは複合語 table of contents を見抜けなかったための誤りです。mode of operation「動作モード」など of を含む複合語はよく見落とされます。
副詞などの機能語の意味と訳し方も、辞書に頼るだけでは理解できないものが沢山あります。
●例文6
otherwise には主に三つの用法があります。その一つがこの例で if not 「そうでない場合は」の意味です。もう一つは in another way「その他の方法で」、最後は if this action is not taken の意味で normally 「普通なら」に近い意味になります。なお、then は if を受けるもので、訳す必要はありません。
ある語句が何を(被修飾語)どんな形で(連体か連用か)修飾するか、修飾関係の判断はその都度行わなければならず、理解力と背景知識が要ります。
●例文7
この例では、which の先行詞を訳者は light と取ったのですが、実は直前の process と解釈するのが妥当です。ただし、実際の英文では先行詞が直前に来ない例も多数あります。なお、As before は「前の場合と同様に」と言う意味です。このような as は「のように」ではなく「と同様に」と訳すべきです。
●例文8
一般に、and で結合された複数の語句の前および後ろに付く修飾語句は、それらすべてを修飾する能力を持ち、実際にもすべてにかかる場合が多いのですが、ケース・バイ・ケースで判断する必要があります。この文では、for linking 以下は連体修飾で、displayed hyperlinks だけを修飾します。
自分の知っている意味では文脈が理解できない単語や表現が出てきた場合、文脈が通じないことに気付きさえすれば、調べればあるいは知っている人に尋ねればわかります。この、おかしいところに気付くということが翻訳の上達にとって大切です。
●例文9
この文章では、insult を通常の「侮辱」の意味に取ったのでは話が通じないことは明らかです。そこで辞書を引いてみると、「障害、発作」という訳語があります。心臓の話なので「発作」を採ります。
直訳か意訳か
直訳か意訳かの議論がよくあります。「直訳では翻訳にならない」と教えている先生がかなりいらっしゃるようで、実際に、潜在能力のある翻訳者でもそうした考えの影響を受けている人を何人か知っています。その人達の翻訳は、訳文だけを見ると非常にきれいでわかりやすいのですが、原文と突き合わせてみると、原文にない内容の追加や原文の語句の言い換えが随所に見られ忠実とはほど遠いものです。特許明細書や契約書などこれでは困ります。
超訳の世界はともかく、原文の内容をできる限り正確に伝えることが目的の一つである翻訳では、忠実さを大事にするスタイルを取るべきです。
どの言語にも同じ内容を表すいくつかのほぼ等価な表現形式、構文があります。例えば英語で目的を表す for (the purpose of)、(in order) to、in order that/so that がそうです。等価表現の他の例として、能動文と受動文、名詞構文と動詞構文なども挙げられます。そこで、例えば和訳の場合、直訳して日本語らしくない場合、等価な他の形式で訳すと大抵は満足できる結果が得られます。この操作は主として、漢字など語幹の部分は変えず、かな書きの付属語の部分を書き換えることに相当します。もちろん、英語では代名詞を多用するが日本語では元の名詞を使う方が自然であるなど、両言語の構造、特徴の違いを反映した手直しは当然かつ必要な処置であって、余分な言い換えではありません。言い換えれば、ぎちぎちの直訳をして、おかしい点だけ等価性を保ちながら手直ししていくだけで、意訳派に負けない訳文ができるはずです。
かって私が訳した出版ものの例を示しておきます。対話文体の尋問調書ですが、いかがでしょう。
本講座の構想
先に「複数の決まった訳し方」と言ったのは、等価表現の組のことです。本連載では、その枠組みを紹介していきたいと思います。定訳を用意しておくことによって能率が上がると共に、複数の選択肢を常にチェックすることによって誤りや不適切さを防げます。ただし、術語の選択では、各専門分野の背景知識が不可欠ですし、構文の選択では、内容の理解力や、どの表現がベターか評価する力が必要です。
枠組みとしては、構文レベル、助動詞や前置詞など地の文の骨組となる機能語のレベル、それに術語を中心とする個々の用語のレベルの3段階に分けて扱い、その上の文体レベルの問題も取り上げます。ただし、用語レベルでは、個々の用語について辞書を徹底的に引くこと、専門の勉強で術語をどんどん覚えセンスを身につけることが基本となります。この連載では、誤りの元になりやすい類義語と多義語について主なものを紹介するに留めておきます。
この講座では主に英文和訳を扱いますが、和文英訳や他言語の翻訳にも応用できる点が多いはずです。