翻訳豆知識
法律
どの分野の翻訳をする場合にも他の分野のことが出てきてその知識が必要になるものです。様々な分野について、翻訳に必要な基礎知識を紹介することにします。
まず法律の呼び方ですが、日本では「特許法(昭和三四年四月一三日法律第一二一号)(最終改正平成八年六月二六日法律第一一〇号)」、「工業所有権に関する手続等の特例に関する法律(平成二年六月一三日法律第三〇号)」などといいます。なお番号は年間で通しです。
欧米では、No Electronic Theft (NET) Act(電子窃盗禁止法)などと呼ばれます。これは略称で、An Act to amend the provisions of titles 17 and 18, United States Code, to provide greater copyright protection by amending criminal copyright infringement provisions, and for other purposes.(著作権侵害行為処罰条項を改正することによって著作権の保護を強化すること、その他の目的のために合衆国法典第 17 編及び第 18 編を改正する法律)という長い名前もあります。Act on ~ (~に関する法律)という名称もよく使われます。
米国では主な法律は法典(United States Code, USC)に編成されており、35USC§102 は、合衆国法典第35編すなわち米国特許法の第 102 条の意味です。行政命令も連邦行政命令集(Code of Federal Regulations, CFR)としてまとめられ、37CFR§1.66 (a) は米国特許法施行細則第 1.66条 (a) 項です。またフランスのように商法典、民法典など分野別の法典がある国もあります。
法令というのは法律 law、act と行政命令 decree、ordinance、order の総称で、議会で制定した法律に基づいて内閣が出す命令を政令 government decree、government ordinance、cabinet order、各省庁が出すものを省令 ministerial decree、ministerial ordinance、departmental regulation といいます。行政命令で、規則、細則という名称のものもあります。もちろん地方議会で制定したものは条例です。外国では、法律と同等のあるいはそれを上回る権限のある命令、勅令 royal edict、imperial decree や大統領令 presidential decree などの制度のある国もあるようです。裁判所から出される命令orderもあります。これらの正確な訳し分けは、一般の辞書だけでは不十分で、その国の法律制度を知っていなければできません。
法律の辞書については、田中英夫編「英米法辞典」東京大学出版会が出て便利になりました。日本の法律名の英訳についてはインターネットにサイト http://home.earthlink.net/~haitani/jplaw.html があったのですが、現在は不明です。
生物の学名
微生物を含めてあらゆる生物には世界共通の"学名"が付いています。たとえばヒトは Homo sapiens、大腸菌は Escherichia coli といいます。この二名法はリンネが定めたもので、前者は属 genus (adj. generic) で大文字で始まり、後者は種 species で一般に小文字で始まり、それぞれ人間の姓および名と同様に扱うことができます。学名は、その生物の発見者が命名する権利を持ち、正式には発見者の名前または略称を学名の後に書きます。たとえばL.はリンネの略称です。既知の生物でもその分類を変更し名前を付け直した場合は、その人の名前が付きます。欧文では、目立たせるために学名をイタリックにしたり下線を付けますが、日本文では必ずしもその必要はありません。属名が前出のものと同じ場合は、頭文字だけを書きます。
Canis familiaris イヌ、C. lupus オオカミ
属の上の分類項目は科 family で、aceae(植物)、idae(動物)という語尾を取ります。その上にはorder 目、class 綱、門、界があり、それぞれ固有の語尾が付きます。上科 superfamily、亜種 subspecies など中間の単位が置かれることもあります。
また、日本語でも和名という正式の日本語名があり、命名権は学名と同じです。れんげ草を正式には"ゲンゲ"というのはそのためです。各国語でこうした正式の名称があるかどうかは国によって異なりますが、英語圏では日本ほど厳格ではないようです。生物名の翻訳で大事なのは、英語名を直訳するのは全く意味がないことです。Japanese beetle は学名 Popillia japonica で、和名は"マメコガネ"です。すなわち、学名を介して翻訳しなければなりません。しかし、外国産のものでは、有名なもの有用なものでない限り、和名の付いていないものがほとんどです。専門家にとっては学名だけで十分です。したがって、和名がわからない場合は、英名をそのままスペルアウトし、学名を(書いてなければ調べて)添えるべきです。英訳の場合も同様に和名をローマ字で綴り、学名を添えます。世界のすべての生物の和名が決まっているのは、山科博士が付けられた鳥類だけです。もちろん文学作品の場合は、余り詳しい同定は目障りとなるので、類似の(たとえば同属の)ポピュラーな生物名を使ったり、音訳したりすることができます。
日本産の生物は調べればほぼわかるはずですが、世界の動物や植物全体の学名、和名、英語その他の外国語名の載っている辞書は、私の知る限りありません。余り知られていないが便利な辞書としては、「和英英和総合水産辞典」金田禎之編、成山堂、「熱帯植物要覧」熱帯植物研究会編、大日本山林会、発売元養賢堂があります。学名と英名の対応データは、インターネットにたくさんあり、個々の生物名で個別に検索する方法も使えます。
ピンイン
中国の標準語(普通語:プートンホワ)の主なローマ字表記法は、戦後新中国で制定されたピンイン表記法と、それ以前に最も広く使われ、現在でも台湾で使われているウェード式の二つです。英文で中国語の固有名詞を表記するときは、かっては慣用名(実は南方方言に基づく発音)Pekin、Canton やウェード Wade-Giles 式綴りが使われていましたが、1980年以降は、特に新聞など公的なものでは、拼音(ピンイン)Beijing(北京)、Guangzhou(広州)が使われています。中国語の単語は、普通語に限らずあらゆる時代、地域を通じて、基本的に頭子音と中心母音と末子音からなり、声調と呼ばれる高低アクセントが付いていて、これが漢字一字で表されます。(頭子音を声母と呼び、母音と末子音を合わせて韻母と呼んでいます。頭子音と末子音はゼロのこともあります。韻尾にはかっては m, n, ng, p, t, k がありましたが、今の普通語で残っているのは n, ng だけです。)中国語の発音で注意すべきことは、日本語では清音と濁音が対立しているのに対し、普通語では濁音がなく、気音 h を伴う有気音と伴わない無気音があることです。ウェード式では、これを t'と t、p'と p などアポストロフィで区別していますが、ピンインでは t と d、p と b で区別しています。もう一つ、シャやチャに似た音が2系統あります。日本語に近い xi (ウェード式 hsi)、qi (ch'i)、ji (chi)と巻舌音の sh、ch (ch')、zh (ch)です。なお r (j)も巻舌音で、ジャ行に近い音です。ツァ行は c (ts', tz')、z (ts, tz)です。母音で紛らわしいのは e で、ie、ei など以外の場合は [S]を表しますが、ウまたはオに近く聞こえることもあります。したがって、北京はカナ書きするとベイジンではなくペイチン、広州はクワントン、毛沢東 Mao Zedong (Mao Tsetung)はマオ・ツートン、鄧小平 Deng Xiaoping (Teng Hsiaop'ing)はトン・シャオピン、日本 Riben (Jiben)ジーペンとなります。普通語の声調は、̄ ́ ̆ ̀ の4種でウェード式では数字 1 2 3 4 で表しますが、英文では普通省略されます。
漢字も新中国では簡略化された形の簡体字が使われています。例えば、機 は 机、廣 は 广 。簡体字もピンインも文盲の多かった中国で識字教育を普及させるために1950年代後半に制定されたものです。なお、台湾関係のものを翻訳する場合は、英文ではウェード式綴り、中文では繁体字を使わなければなりません。繁体字は國など日本の正字に相当するものです。
中国の主な地名、団体名などを調べるには小学館の「最新中国情報辞典」が便利です。漢字(簡体字と繁体字)、ピンイン、日本語訳が載っています。中国語の固有名詞を英訳する場合は、中日辞典の使い方を知っていれば何とかなりますが、逆に漢字に戻すのは、その固有名詞の見当が付かないとほぼお手上げで、インターネットにもかなり広範囲の語を集めたサイトはなさそうです。